2007年4月23日

多読の悩み・・・続

多読の悩みにはさまざまな形があるようです。
「まつかわ1971」さんがさっそく返事をくださって、「あうでぃ」さんの悩みに同情を寄せています。(同情は悪い意味ではないです。「自分はそういう気持ちは持っていないけれど、そういう気持ちを持つことはわかる」という意味です。英語でいうとempathyかな? >Cheeksさんへ)

先生、たびたび、まつかわ1971です。 多読という、苦しまなくていいはずの英語との接し方を知ってしまったために、かえって苦しんでしまう人がいるのは、かなしいことです。100万語多読はあくまでも英語学習のアプローチであるのだから、「勉強」になってしまうのはしかたないかもしれませんが。 外国語学習の不幸は、研究者や実務家といったプロを養成するための方法が、一般の語学を趣味にしたい人にまでおよんでしまうことのような気がします。よく、会話学校のおしゃべり練習とか、帰国子女のうわべの流暢さとかが揶揄されたりしますが、人それぞれ分相応に、言葉とかかわればいいのでは。別に万人が英語論文を書けて、日本文化の親善大使になる必要はないはずです。 ぼくは、自分にとっての外国語は、メジャーや甲子園へ続く長い道ではなくて、草野球だとわりきっています。今楽しめる精一杯を楽しめたらいいと。ペンギンのGRで、「Fly Away」を読んだ時の、ほんとに自分も空を飛んでいるような高揚感を共有できるタドキストは多いはずです。 みんなそれぞれ、生活や仕事をかかえながら、合間をぬって英語とかかわっているはずです。仕事がだんだん忙しくなったり、親の介護、自らの病気、いつか、英語とかかわれなくなってしまう日は訪れます。そんなとき、10年先を見越した単語カード作りや、音読練習をしていただけだったら、苦労した思い出しか残らない。でも、多読だったら、ORTで終わってしまったとしても、とにかく楽しめたという、幸せな思い出が残ると思うのです。 書くときや話すときでもそうです。ほんとに心をつくさなければいけないのは、用向きと喜怒哀楽をできるだけ伝えたいままに伝えられるようになることで、時制や前置詞の正確さではないはずです。ひょっとしたら、そう言った正確さはあとからついてくるかもしれません。 絵本をだしにしてリーディングを勉強するとか、なにかをだしにして英語を勉強するという意識も、ネガティブに働いてしまわないでしょうか。「こども式」というのも、こどもになることをだしにしているうちは、苦痛をともなうだろうな、と思うのです。絵本を楽しむ、ついでにあとから英語がついてくる、くらいの気持ちが、ちょうどいいのではないでしょうか。 べつに向上心を持つべきでないと言うわけではないのです。「今はこれしか読めないから、こんな幼稚なのでがまんしてるんだ。それすら読めない自分って最低!」みたいな負の方向に気持ちがむいてしまうのが、かなしいのです。 多読のそもそもの出発が、文法偏重や単語帳暗記、英文解釈の否定からはじまっているためでしょうか、それから自由になれて、「やったー!」とぼくのように思える人と、それにとらわれている自分に罪の意識のようなものを感じてしまう人がいるようです。そういった人たちがソフトランディングできるような、「最初はそれでもいいんだよ」とか、気持ちが楽になるような、そんな具合にはいかないものでしょうか。
多読の自由さに悩む人に同情を寄せていますが、まつかわ1971さんの場合は多読三原則をあっけらかんと受け止めたのですね。でも、まつかわ1971さんは自由さ故に悩む人たちに限りない配慮をしようとしている・・・ とかくなんでも「ばさっ」と断ち切ってしまいがちなわたしにはその配慮がまぶしいようです。

「最初はそれでもいいんだよ」??もちろんそうなのですが、次の「紫」さんのメールを読んでみてください。どうも、「最初はそれでもいいんだよ」だけでは済まない場合もあるようなのです・・・

二つの心のこもったメールのあいだでわたしは・・・?