2007年5月14日

多読指導の悩み 「ゆき」さんから

「macska」さんのメールのあと「ゆき」さんのメール・・・
どちらもいきなり多読指導の核心に迫ってきました。

うーん、こんな大事なやりとりの最中にゲンコー書きか?

酒井先生、こんばんは。 以前、一度メールをしたことがありますが、今回はちょっと耳が痛いのが耐えられずに、メールをしました。実は、私は昨年、中学校の英語教師でした。今年は訳があり離れていますが。以下のことが耐えられない点です。

皆さんの学校に対する意見はとても耳に痛いです。実際のところ、今の学校は様々な問題を抱え、四苦八苦しているさなかです。しかし、学校は日本全国たくさんあり、何百の教師がいます。学校の方針もそれぞれあるでしょう。それを一概には言えない、ということを前提で話をしていただきたいと思ったのです。
受験合格を目標にしている予備校のような学校もあると思います。昔ながらの教授法を取っている教師もいると思います。しかし、教師は時代の変化に合わせていないわけではありません。

「日本語に訳さない、英語を英語のまま理解してきたこどもたちは、確かに「学校英語」の完璧さに馴染めないことも多いのではないか・・」ごもっともな意見です。その通りです。しかし、では全ての学校がそのような授業を行っているのでしょうか?
答えはNOです。私はテストに問題集さながらの「下線部を訳せ」という問題を作り、「そういった問題は今は求められていない。訳すのは重要ではない」と訂正されました。授業で、教科書の日本語訳など入れようものなら「interpreterを育てているのではない」とばっさり言われました。少なくとも、私のいた学校では文科省の「コミュニケーション力」と育成するような授業の構成にこだわっていました。
私自身、自分の経験、学んだことからTPRやナチュラルアプローチを好み、そういったものを少ない授業時数の中、教科書という縛りの中で必死に取り入れ、子供に「自然に身につける」機会を与えようと努力してきました。しかし、週3回、50分の授業の中では限界があるのです。
「きっかけ」や「学び方」、「情報」は教える、そこからは子供自身にまかされているのです。「授業さえ受ければできるようになる」といったものを提供する場でもなく、その時間もないのです。
私は多読やシャドーイングは生徒に情報として伝えました。そういったきっかけや情報を与えるのが教師です。全てなにもかも手取り足取り面倒みるのではありません。「興味を持ったことに、自分で考え取り組む子供を育てる」のが教師の本来の姿なのです。

「待てない」わけではありません。しかし、教科書は終わりにしなければいけないものです。足りない時間の中で必死に教科書を終わりにします。しかし、その中でも生徒一人一人、速度も進度も違うことは十分承知しています。不器用な子が一ヶ月かかって一つ理解する、それは素晴らしいことなのです。授業は進んでいても、一人一人に合わせたことを望んでいるはずなのです。その子なりに一歩一歩進むことを教師は望んでいるのです。そのあたりを分かっていただけたらと思います。

「自信を持ってしまって、テストのためにきちんと勉強しないんです。それは、これからのあの子にとって、プラスにならないんじゃないか・・・」という話ですが、私はこの保護者の言葉を理解できます。勉強をしない、つまり自分の能力を過信するあまり努力を忘れ、その場しのぎやその瞬間の直感で行動するような子供に成長してほしくない、ということなのではないでしょうか?
学校では教科を教えます。しかし、それだけを目的にしているのではないのです。そういった勉強を通して、心身を成長させることを目的としているのです。人生はいくつになっても勉強です。「驕るもの久しからず」という不安をこの保護者は抱えていたのではないでしょうか。子供のときに学び方や学ぶ習慣を身につけることはとても大事なことなのです。社会に出たときに必ず必要となる能力の一つだと私は考えています。

(長すぎて送れないので、分けさせていただきます。?)

この保護者のように、教師もそれぞれ身につけさせたいものというものを内に秘め、それを進むべき光としています。
ちなみに私は、「世界を見ることのできる広い視野」「社会の中で共生していくための人間関係のあり方と築き方」「他との協力精神、助け合いの精神、思いやりの心」の3つを、私の英語の授業を通して学んでほしい、身につけてほしいと考え、それを進むべき方向としていました。
子供によく言われました。「日本で暮らすから英語なんて勉強することないんだ」と。子供の可愛い憎まれ口です。しかしこの言葉に全てが表れている、といつも思いました。つまり、教科しか見えていないのです。もちろん、子供はそれでいいんです。何も知らず、知らないうちに成長すればいいんです。
しかし、大人には分かってもらいたいと、思うのです。ただ、教科を教えるだけなら、学校は必要ないです。それ以外に、人間としてまず大事なことを教えるために学校は本来あるのです。
勉強ができればそれでいいですか?人間性や社会性の育成は必要ないですか?勉強以外で、どんな人間に成長してもらいたいと願っていますか?どんな心を持った大人になってほしいですか?
たとえ学校の授業が「時間と労力の無駄」と思えても、その裏ではもっともっと大事なことを教えています。学校は、教科を教えることを媒介として、子供の人間性のよりよい育成を図っているのです。
それが、教師であり、学校です。

酒井先生、私の話をどうお考えになりますか?
これが声を発さない教師の心です。私はいつも、なぜ教師はそういった理解を求めないのか、と不思議に思います。昔は当たり前のことだったのでしょうね・・。しかし、私にはここが理解されなくなってきたことが、教師と保護者ないし社会との不和なのではないかと思うのです。
教師が声を出さないのは、なにか理由があるのかもしれません。しかし私はまだ未熟なので言い返さずにはいられないのです。理解してもらいたいのです。
このような場で長々と論じてしまい申し訳ありません。不適切なら無視してくださって構いません。


わたしもたっぷりお返事したいところですが、「多読的文法論」(仮題)もせっぱ詰まっているので、みなさんの意見交換に任せたいと思います。

もし掲示板になったとして、掲示板では意見を寄せにくいという方は引き続き
メール・フォームを使ってください。1ヶ月後にお答えします!