2008年9月15日

レールをはずれるために −いち−

「雫」さんのメールを紹介した中で書いたように、このところ、あちこちで「多読が学習法になっていないか?」という意見を聞きます。

わたし自身、そのことはしばらく前から気がついていて、何度かブログや掲示板で懸念を表明しました。

まもなく(10月?)このサイトは「多読村」として再出発しますが、それを機会に

  これまでの多読と決別する

必要があるかもしれないと考えはじめています。

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わたしは「壊し屋」でしょうかね?

多分そうなんでしょう。掲示板ではわたしに「なにも壊さなくていい」と言ってくれているらしい人もいますが、わたしはどうしても、

  今までを壊さなかったら多読は生まれなかった!

と、思ってしまうのです。わたしの言い出した多読と学習法の間にはふかーい溝があるのじゃないかと。

そこで、ここが多読誕生以来の正念場かも、と思います。

簡単に言えば、多読が従来の英語学習法を「否定」して生まれてきたのなら、
多読が学習法のようになってきた今、従来の多読を否定することもありえる?

どうなんでしょうね?

「雫」さんのメールを紹介した中でも書いたように、きのうの蘊蓄オフ会のあとで少しずつ「恐ろしい可能性」が頭をもたげてきました・・・

わたしはどうしてこんな風に、何もかも(?)壊したいのか?
どう壊すかは、気持ちが固まったら、書きます。

いや、固まらなくても書きましょう。「こう壊すつもりだったけれど、やめにした」と。そうじゃないとみなさんの知りたい気持ちが治まらないと思うので・・・
もう一つ、きのうの飲み会のあとで話しながら帰った中でもらったヒントですが、
比較的穏便な、修正もあるのかもしれません。

その三つの道のどれを選ぶことになるのか?
God only knows.